
2025年公開のジャパニーズホラー映画『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、VHSという古びた記録メディアを媒介に、“記憶”と“存在”の不確かさを深くえぐる作品だ。本記事では、映画の基本情報や物語の核となるあらすじを押さえたうえで、視聴後に誰もが気になる「司はどうなったのか?」「摩白山とは何だったのか?」といった疑問を多角的に考察していく。
中盤以降、ゼミ仲間・美琴は何を“見てしまった”のか。そして、映像の中に取り込まれていくようなラストの構造が何を意味しているのか──それらは、あえて語られずに沈黙することで、より深い読解を観客に委ねている。
また、作品中にはフレームの端に映る“第三者”や、ガラス越しの隠された演出といった巧妙な伏線が点在しており、再鑑賞時にはまったく違う顔を見せる。さらに、入場者特典の短編小説『未必の故意』が補助線として作用し、登場人物の“語られない罪”を照らし出す点にも注目だ。
本記事では、作品に散りばめられた要素を丁寧に拾い上げながら、ホラーという枠を超えた“映像と記憶の物語”を深掘りしていく。
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』ネタバレ考察|あらすじと出来事を整理
チェックリスト
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映画は“記録と記憶の不確かさ”を主題にし、VHSを媒介に恐怖を描く
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監督・近藤亮太の長編デビュー作で、短編映画の受賞作を基に制作
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摩白山は“捨てる文化”と“記憶の封印”を象徴する舞台として機能
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主人公・敬太はVHSを再生する中で自身の記憶と存在が曖昧になっていく
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敬太の友人・司の“存在抹消”も物語の中で重要な意味を持つ
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映像が“真実を映す”のではなく“見る者を巻き込む呪い”となっている
基本情報と公開時の注目点
項目 | 内容 |
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タイトル | ミッシング・チャイルド・ビデオテープ |
原題 | Missing Child Videotape |
公開年 | 2025年 |
制作国 | 日本 |
上映時間 | 104分 |
ジャンル | ジャパニーズホラー/サスペンス |
監督 | 近藤亮太 |
主演 | 杉田雷麟、平井亜門 |
映画のタイトルと監督情報
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、2025年1月24日に公開された国産ホラー映画です。
監督・脚本を務めたのは近藤亮太氏で、本作が長編デビュー作となります。近藤監督はこれまでに『イシナガキクエを探しています』などのテレビドラマの演出に関わり、Jホラーの系譜に連なる作品づくりを行ってきました。
受賞歴と製作背景
本作の原案は、2022年度「第2回 日本ホラー映画大賞」で大賞を受賞した短編映画であり、その受賞を機に劇場用として拡張されました。映画賞受賞作を基にした商業長編デビュー作という背景は、Jホラーファンから注目を集める大きな要因となりました。
スタッフ・キャスト
- 監督・脚本:近藤亮太
- 主演:杉田雷麟(児玉敬太役)、平井亜門(天野司役)
- 撮影:松田一久
- 配給:KADOKAWA
加えて、藤井隆や関町知弘(ライス)など、お笑い芸人をあえて起用した点も印象的です。これは「観客が知っている顔が、知らない存在に見える恐怖」を狙ったものとされています。
ジャンルと演出スタイルの特徴
ジャンルは「静的ジャパニーズホラー」に分類され、ノーCG・ノージャンプスケア・ノー特殊メイクという制約のもとで製作されています。つまり、音や映像で直接的に驚かすのではなく、静寂と違和感で観客の神経を削るような恐怖表現が中心です。
これは90年代の『リング』や『仄暗い水の底から』といったJホラーの文脈を受け継ぎつつも、現代的な映像文法で再構成した「見せないことで怖い」ホラーの再提案と言えます。
あらすじ|消えた弟と封じられた記憶

きっかけは17年前の山中での失踪事件
物語の中心には、主人公・児玉敬太の弟・日向の失踪事件が据えられています。
17年前、幼かった敬太は、母親と弟・日向と共に母の故郷である山村を訪れます。ある日、兄弟だけで山へ向かったまま、日向は帰らぬ人となりました。
敬太は母に「1人で帰ってきた」と語りますが、それ以降、家族の間で弟の存在は語られなくなり、まるで“いなかったこと”にされたような扱いを受けます。
この「曖昧な記憶」と「話せない過去」が、作品全体に重くのしかかる違和感と罪悪感の源となっていきます。
記録に残された“あの日”の映像
大学生になった敬太は、民俗学ゼミの活動の一環として、当時の出来事を映像で再現する試みを始めます。
その過程で発見されるのが、破損しかけたVHSテープ。そこには、かつての兄弟の姿が、断片的なノイズや映像の乱れと共に記録されていました。
このVHSは単なる記録映像ではありません。再生されるたびに、映像の中に奇妙な“ズレ”や“異物”が混じり込んでいき、観る者の感覚を狂わせていきます。
過去と現在、現実と記録が曖昧に交差する構造がここで浮き彫りになります。
記憶と映像が食い違い始める
VHSを再生するうちに、敬太は自分の記憶と母親の証言、映像の内容が一致していないことに気づきます。
誰もが「確かなことを覚えていない」──にもかかわらず、ビデオだけが無情に“あったこと”を記録しているように見えるのです。
そしてその映像には、現実では説明できない何かが映り込んでおり、やがて敬太はそれを追い、“映像の中の異界”へ足を踏み入れてしまうことになります。
映像は真実を語るか、それとも嘘を暴くか
この物語で印象的なのは、VHSという記録媒体の扱い方です。
映像は本来、「事実を記録するもの」のはずですが、作中のVHSはむしろ「隠していた嘘を暴き出す呪いの装置」のように描かれます。
映像によって過去が掘り起こされるほど、敬太は混乱し、恐怖に蝕まれていきます。語れなかった過去が、映ってしまった真実に置き換えられていく構図が、観る者にも強烈な不安を植えつけます。
このように、“消えた弟”の物語は単なる失踪事件ではなく、記録・記憶・言語化できない体験の歪みに迫る物語となっています。
あらすじで語られる出来事のひとつひとつが、「見る」「映す」「覚えている」ことの不確かさと背中合わせで進行していくのが、本作の最大の特徴です。
ラストを考察|敬太はなぜ“映像の中”に消えたのか
消える主人公、反転する視点
物語のクライマックスでは、主人公・敬太が弟・日向の痕跡をたどる旅の果てに、姿を消すという衝撃的な展開を迎えます。
観客は次第に「敬太がVHSの映像の中に取り込まれたのではないか」と感じるようになります。
物理的な説明は一切ありませんが、カメラの視点が徐々に「誰かに撮られている敬太」へと移行し、ついには彼自身の姿が画面から消えます。
“カメラを持つ者”から“カメラに映る者”へ、敬太は立場を変えてしまったのです。
VHS=呪いの装置としての意味
ここで登場するVHSは単なる記録媒体ではありません。
むしろ、映る者と観る者、記録と現実の境界を曖昧にする“呪具”のように機能しています。
敬太が消える描写は、「行方不明=存在が記録から削除される」ことを象徴しており、彼は“過去を記録する者”から“記録される亡霊”に変わってしまったと解釈できます。
このラストは、映像に残る=存在が定着するという安心感を真っ向から否定する構造になっているのです。
映像は過去を記録するのか、過去に囚えるのか
映像は通常、出来事を記録することで「証拠」となります。
しかしこの作品では、VHSに記録された映像が“観るたびに変化している”ように感じられる描写があります。つまり、これは記録ではなく呪いそのものとも捉えられます。
敬太が“弟の真相”に迫ろうとすればするほど、彼自身がその世界に吸い込まれていくように構成されており、映像は真実を伝えるのではなく、「嘘を暴き、見る者を巻き込む媒体」となっているのです。
ラストが語らないことの意味
敬太の最期は語られません。
誰が彼を撮っているのか、なぜ消えたのか、映像の中で何が起こっているのか——何一つ明確な説明はされないまま幕を閉じます。
しかしこの“語らなさ”が本作最大の恐怖とも言えます。
観客は「自分もまた、知らず知らずのうちに誰かに見られ、記録されているのではないか」という不安に飲み込まれていきます。
これは単なる怪奇現象ではなく、「記憶・映像・存在」が曖昧になっていく現代社会への静かな警鐘とも受け取れます。
語られないからこそ、恐怖は続く
このラストの特異性は、「終わっていない感覚」にあります。
真相は明かされず、恐怖の原因も説明されず、映像はただ“そこにある”。
その沈黙が、観た人の想像力に恐怖を託す構造になっています。
言い換えると、本作のラストは「ホラーとは、終わらないものだ」と語っているのです。
敬太の消失は単なる事件の結末ではなく、観客が物語の“次の語り手”となるための起点でもあります。
それが『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』という作品の、最も不気味で、最も巧妙な仕掛けです。
司はどうなった?|“存在ごと消える”という恐怖の構造

誰にも気づかれず、記憶からも消える存在
天野司は、物語序盤から敬太と共に失踪事件を追う協力者として登場します。
知性と冷静さを持つ彼は、敬太の良き理解者として観客にも安心感を与える存在でした。
しかし終盤、物語が異界に近づくにつれて、司の存在は突然“曖昧”になり、誰の記憶からも消えていくのです。
劇中では、司の失踪が明確に言及されることはありません。登場人物の誰も不審に思わず、まるで最初から存在しなかったように扱われていきます。
この「消え方」は、死や行方不明というよりも、“物語から削除された”印象を観客に残します。
司は日向の“もうひとつの顔”なのか?
作品の核心である「失踪した弟・日向」と司のキャラクターには、いくつかの共通点があります。
たとえば、年齢や雰囲気、敬太との精神的距離感、そして何より「敬太の中に深く入り込んでくる存在」であることです。
このことから、司は敬太が抱える過去の罪悪感や喪失体験が“具現化”した存在ではないかと推測できます。
つまり、敬太にとっての司は、“消された日向”と向き合うために必要だった存在であり、記憶と記録の狭間から一時的に現れた投影だった可能性があるのです。
“役目を終えた者”が消える構図
もし司が、敬太の記憶を呼び覚まし、真実へ導くための“装置”だったとしたら、その役目が終わった時点で彼が物語から退場するのは自然な流れです。
そしてその退場は、“死”や“別れ”のような一般的な描写ではなく、誰にも気づかれず静かに消えていくという異質な方法で示されます。
このことが強調するのは、「人は記録されなければ、存在しなかったことにされる」という本作のメインテーマのひとつです。
司の“その後”を想像するという余白
映画は司の行方を一切説明しません。
ですが、観客が自由に想像できるよう、あえてその“余白”を残しています。
例えば、司は摩白山という“捨てる場所”に呑まれたのかもしれません。
あるいは、過去の罪と向き合うという敬太の内面の旅が終わったと同時に、司の存在も“使命を終えて消えた”のかもしれません。
ここで大切なのは、司の消失がただの“事件”ではなく、観る者自身が「記憶」「存在」「語られないもの」について考える契機となっていることです。
忘却と抹消こそが本作の恐怖
司のように、「誰にも気づかれず、記憶にも記録にも残らない存在」となることこそが、本作で描かれる最大の恐怖です。
それは単なる幽霊や怪異とは違い、私たちの日常にも潜む“現代的な孤立と消去”の象徴でもあります。
このように、「司はどうなったのか?」という問いに対する明確な答えは提示されません。
しかしそれゆえに、観客が自分の記憶と想像力を通して“もう一つの物語”を作ることができる構造になっているのです。
摩白山の信仰と捨てる文化を考察する

舞台である摩白山の“異常な静けさ”
映画『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』において、摩白山(ましろやま)は単なる背景ではなく、物語の中核を担う存在です。
その山には、昔から“縁を切る”“捨てる”といった因習的な役割が与えられており、劇中でもその言い伝えが随所に描かれています。
たとえば、村の年長者の話や古文献の記述を通じて、「関係を断ち切る場所」「不要な記憶や存在を預ける場所」としての摩白山が浮かび上がります。
静かなその外見とは裏腹に、この山には“人間の都合で見なかったことにされたもの”が押し込まれる場所としての不穏さが漂っているのです。
土着信仰に宿る“見なかったことにする力”
摩白山に流れる思想は、いわゆる“八百万(やおよろず)の神”が息づく日本の土着信仰とつながっています。
「縁切り神社」や「捨て子石」などに見られるように、古くから人々は不要なものや見捨てたいものを神に委ねることで責任から解放されようとしてきました。
作中に登場する「赤子を山に置いた」という逸話や、「記録から名前を削除する」という行動も、その延長線上にあります。
つまり、摩白山とは物理的な空間であると同時に、“記憶のゴミ箱”や“罪の預け先”としての象徴的な場所でもあるのです。
捨てられた者は消えない、還ってくる
Jホラーの伝統において、“捨てられた者が還ってくる”という構造は非常に強い恐怖を伴います。
本作においても、敬太の弟・日向や友人・司といったキャラクターが、「消えた」というよりも「そこに置いてこられた」ように描かれます。
山に吸い込まれるように姿を消した彼らの存在は、時間が経っても“記録”や“映像”の中に残り、ふとした拍子に現実に侵食してきます。
この描写が示しているのは、山に捨てたはずの記憶や罪が、完全には消えないという恐怖です。
摩白山が象徴する現代的“記憶の処理装置”
摩白山のもっとも不気味な点は、因習だけでなく現代的な心理とも深く結びついていることです。
「語らなければなかったことになる」「記録しなければ存在しなかったことになる」——これはデジタル社会に生きる私たちにも馴染みのある思考パターンです。
摩白山は、そうした“言葉にしないことで忘れようとする心”や、“映っていなければ現実ではない”という価値観を地理的かつ信仰的に具現化した場所とも言えます。
そして、それに向き合わざるを得なくなった者が、過去の記憶に取り込まれていくという構図が、作品全体に静かで重い恐怖を与えています。
見なかったことにする社会の縮図
最終的に、摩白山は「人が見たくないものを預け、語らずに済ますための仕組み」として機能しています。
敬太や周囲の人々が向き合うことになるのは、単なる山の因習ではなく、社会全体が抱える“見なかったことにする文化”の歪みです。
この山は何も語りません。しかし、語られないということ自体が最大の語りであり、観客はその沈黙の重さを通じて、自身の中の「見たくない記憶」にも触れさせられます。
その意味で、摩白山は恐怖の象徴であると同時に、「記憶と責任を封じ込める場所」として、静かに私たちを見つめ返してくる存在なのです。
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』ネタバレ考察|演出・モチーフ・余白・伏線
チェックリスト
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VHSは単なる記録媒体ではなく、記憶を狂わせる“呪具”として機能する
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映像に映る異物や視点の揺らぎが、観る者の現実感覚を不安定にする
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敬太は記録の中に取り込まれ、記録者から“記録される者”へ転化する
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短編『未必の故意』は、映画と共通する“語られぬ罪”や“無意識の加害性”を補完
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美琴は他人の記憶に触れることで“取り込まれる側”に回り、父との過去も関与
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見えない幽霊や語りの力によって、恐怖が観客の“内面”へと転化されていく
VHS考察:映像が語る“呪いと記憶”の正体

アナログ映像の“歪み”が恐怖を拡張する
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』に登場するVHSテープは、単なる記録媒体ではありません。
その映像には敬太と弟・日向が山へ向かった“あの日”が収録されているはずですが、ノイズや映像の欠損、映像内容の揺らぎが顕著に現れます。これにより観客は「見ている映像は事実なのか?」と疑問を抱かされます。
デジタル映像と違って、VHSには経年劣化による映像の歪み、音声の乱れ、そして映像自体の“曖昧さ”が宿ります。
これらはリアルさを担保するどころか、“何かが映ってはいけないものが映っているのではないか”という不安感を観る者に植え付けます。
記録メディアが“語り始める”とき
VHSの役割は、もはや“記録”だけにとどまりません。敬太が何度も再生する中で、テープは内容を微妙に変化させ、現実の証言や記憶と食い違いを見せていきます。
この現象は、VHSが記録者から独立し、“語る存在”として自律的に意味を発信し始めていることを象徴しています。
また、視点の不確かさや「誰が撮ったのか不明な映像」なども、観客の視点そのものを揺さぶり、“見ること自体が危険である”というテーマを浮かび上がらせます。
“映像に取り込まれる”という構造の恐怖
本作では、VHSを再生することで現実と映像の境界が崩れていき、敬太自身が映像の中に“入り込む”という描写がなされます。
これは単なるホラー演出ではなく、「記録する者が記録される者へと転化する」という視点の逆転を意味しています。
映像は真実を記録するのではなく、人の記憶を侵し、現実を捻じ曲げ、時に人間そのものを取り込んでしまう危険な装置として描かれているのです。
“記憶を呪いに変える装置”としてのVHS
物語を通じて、VHSは敬太の罪悪感や家族の過去、そして“なかったことにされた存在”を再び呼び起こす媒介として機能します。
本来、過去を保存するためのツールだったはずが、過去の曖昧さや記憶の歪みを具現化させ、登場人物たちを精神的に追い詰めていく“再呪術化の装置”と化しているのです。
つまり、VHSは「見たくない記憶と無理やり向き合わせる」存在であり、それゆえに観客にとっても逃れられない不安と恐怖をもたらします。
映画と短編に共鳴する“未必の故意”という視点

「未必の故意」という言葉の意味と背景
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』を深く知る上で重要な「未必の故意」は、入場者特典として配布された冊子に収録された短編小説のタイトルです。
映画本編とは直接的な物語の繋がりはないものの、テーマや構造面での“補助線”として、極めて示唆的な役割を果たしています。
そもそも「未必の故意」とは法的概念であり、
“ある結果が起こる可能性を認識しつつ、それを受け入れて行動する心理状態”を指します。
例えば「このまま放置すれば人が死ぬかもしれないが、それでも構わない」と考えて行動するケースが該当します。
短編小説『未必の故意』の概要と映画との共鳴
この短編は、怪談作家“背筋”氏によるホラー作品で、映画と登場人物も舞台も異なる独立した物語です。
しかしながら、描かれているのは「語られない罪」や「曖昧な加害性」というテーマ。映画と共通する心理構造が随所に見られます。
たとえば:
- 映画では、敬太が弟を見失った背景や母の自死に関して明確な原因が語られず、「気づいていたのに止めなかったかもしれない」という曖昧な罪が全編に漂います。
- 小説では、語り手が“友人の異変に気づいていたが見過ごした”ことを回想し、それがのちの失踪事件につながっていた可能性が示唆されます。
このように、どちらも“責任の所在が曖昧なまま、取り返しのつかない結果を迎える”という共通構造を持っています。
VHSと“記憶の再浮上”という装置
両作品ともに、VHSなどの記録メディアが重要な役割を果たします。
映画では、敬太が再生したテープによって封じたはずの記憶が呼び起こされ、彼自身が映像の中へ引き込まれていく構造になっています。
同様に短編でも、失踪直前に撮られた映像が“過去に向き合わざるを得ない装置”として機能し、語り手の罪を映像によって浮き彫りにしていきます。
この共通点から、「記録=真実の証明」という一般的な前提が崩れ、“記録こそが呪いの発端”となる視点が両作に通底しています。
“語られない罪”と“偶然を許さない構造”
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』では、弟・日向の失踪や母の死が「たまたまそうなった」と言える状況ではなく、敬太自身も説明できないまま結果だけを受け止める構図です。
この描写は、短編『未必の故意』における語り手の“見過ごした責任”と重なり、「無意識の加害性」という概念を強く印象づけます。
また、両作とも「答えは示さない」という構成をとっており、観る者・読む者に「自分は無関係だったのか?」という疑念を抱かせます。
なぜ『未必の故意』というタイトルなのか?
短編と映画の関係性を一言で表すなら、“表に出ない罪を可視化する”補助線的な物語です。
映画が感情や記憶の断片を中心に進むのに対し、短編ではその“語られなかった感情”を言葉として明示し、
まるで「敬太が罪と向き合うもう一つの可能性」を描いているかのような“パラレルな内面劇”として読めます。
“無意識の責任”という問いかけ
タイトルである「未必の故意」は、見過ごしてきた“誰かの責任”を問い直すキーワードです。
それは、自覚的な悪意ではなくとも、無関心や無意識の行動が誰かを傷つけていたかもしれないという視点を私たちに突きつけます。
この言葉こそ、『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』という映画が真正面からは語らない、“静かな罪とその痕跡”を照らし出す鏡なのです。
補足:短編と映画に共通するモチーフまとめ
テーマ | 映画:ミッシング・チャイルド | 短編:未必の故意 |
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消えた存在 | 敬太の弟・日向 | 友人・矢部(登山中に失踪) |
語られぬ罪 | 守れなかった兄 | 見て見ぬふりをした友人 |
記録メディアの役割 | VHSが記憶と恐怖を浮かび上がらせる | 映像が“証拠”として罪を暴く |
未必の故意 | 暗に示される“止めなかったかも” | はっきりと語られる“気づいていた” |
母親の存在 | 自殺を遂げる/手紙で登場 | 息子の捜索者/真実に迫る母として描写 |
映画が“視覚のホラー”を通して観客を揺さぶる一方で、短編は“語られない内面のホラー”を言語化する作品です。どちらが正史かではなく、二つの物語が互いを照らし合うことで、敬太の“罪と無意識”をより深く掘り下げる視座が与えられる構成となっています。
美琴はなぜ巻き込まれたのか?

関係のなかった彼女が「取り込まれた」理由
映画『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』において、美琴(敬太のゼミ仲間)は、直接的には事件に関わっていない人物として登場します。しかし、彼女もまた徐々に「ビデオの呪い」に巻き込まれていき、視聴者の間でその理由が議論されました。
前述のとおり、物語ではVHSという媒体が“呪い”や“記憶の侵食”の象徴となっており、それに接触した人物が少しずつ現実との境界を失っていきます。美琴もまた、記録映像の再構成作業に関わり、「弟の失踪」にまつわる取材映像や編集作業を通してVHSに深く触れる立場にあったのです。
美琴が霊に憑かれた理由とは?
劇中、美琴はある時点から急激に様子を崩し始めます。幻覚や妄想的な言動が増え、最終的には不可解な失踪や精神的な崩壊が暗示されます。この過程は、単なる恐怖の演出ではなく、"映像を媒介にした呪い"という構造の中でのリアルな反応として描かれています。
つまり、美琴は「怨念の映像」に“触れてしまった”ことで、日向や司と同様に、語られずに消された者たちの記憶や怒りを“受け取ってしまった”存在なのです。
父親のメッセージが持つ意味
物語終盤、美琴が発する言葉の中には「父親のメッセージを見た」といった描写が含まれます。これは、直接的な説明がなされないままですが、明らかに彼女の精神に何かを残す体験であったと描写されています。
この父親の存在は、物語全体の“語られない過去”や“消された記憶”と深く関係していると考えられます。彼女自身もまた、個人的な喪失や家族の記憶と向き合う過程で、VHSを媒介にその過去と交差してしまった可能性があるのです。
このように、美琴の巻き込まれは単なる偶然ではなく、「他人の記憶に触れることが持つリスク」や「誰かの物語に参加することの代償」を象徴する役割を担っています。
幽霊は本当に存在していたのか?

映画の中に描かれる“存在しない存在”
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』では、幽霊や霊的な存在がはっきりと「出てくる」わけではありません。むしろ、本作はあえて“見せない”ことを重視し、ノイズや映像の歪み、不可解な挙動を通じて「そこにいるかもしれない何か」を提示していきます。
ここで重要なのは、登場人物たちが見る“異常”が本当に霊によるものなのか、それとも自身の記憶や罪悪感がもたらした幻覚なのか、判断できないように描かれている点です。
罪悪感の投影としての超常現象
主人公の敬太をはじめ、彼に関わる人物たちは皆、どこかしらに“語られなかった罪”や“見捨てたかもしれない過去”を抱えています。幽霊のような現象が彼らの前に現れるたび、それが何者かの怨念というよりは、内面に巣くう後悔や恐怖の具現化のようにも感じられる演出が多く存在します。
特にVHSの映像は、ただの記録ではなく、「記憶の断片」「見たくない過去」「見落とされた罪」を呼び戻す触媒のように作用しています。その映像を見て“幽霊”を見るか、“自分自身の闇”を見るかは、観客によっても解釈が異なる構造になっています。
観客自身が幽霊の視点に入る瞬間
物語の終盤では、主人公の視点が曖昧になり、観客自身が「誰の目線で何を見ているのか」わからなくなる描写があります。ここでは、幽霊の存在自体が「恐怖の対象」ではなくなり、「見る者」や「記録する者」すらも呪いに巻き込まれる構造が明らかになります。
つまり、幽霊はいたのか? という問いに対して、映画は「いた」とも「いなかった」とも明示せず、観客に判断を委ねます。むしろ本質は、“語られなかった事実”が、映像や空間に残り続けてしまうこと自体が幽霊的である”という、極めて現代的なホラーの解釈を提示しているのです。
旅館の青年と“語られる怪談”の意味
青年の登場と“奇妙な語り”の演出
映画中盤、敬太たちが訪れる山奥の旅館には、印象的な“語り部”の青年が登場します。彼は飄々とした雰囲気を持ちながら、「この山では昔から人が消える」という話を淡々と語り始めます。その内容は曖昧かつ断片的で、真実味があるようでいて確証のない語り口となっています。
この語りは、登場人物に情報を提供するという役割だけでなく、観客に“聞かされた不安”を植え付ける装置でもあります。まるで都市伝説のように、事実と創作が入り混じった怪談が、“現実のようで現実ではない何か”を滲ませていきます。
語られることで生まれる現実の揺らぎ
怪談が口頭で語られるという形式には、非常に強い演出効果があります。観客はその場に録音や映像があるわけではないため、“聞いた話”としてのみ受け取るしかありません。しかし、劇中の敬太たちは、その話に影響を受けて行動し、次第に現実と語りの境界が崩れていくのです。
この構造は、「語られた怪談が現実を侵食する」という、まさにホラーの本質を突いた仕掛けになっています。青年の存在もまた、“語ることで現実を変える媒介”のような存在と見ることができます。
青年自身の正体の曖昧さが示すもの
注目すべきは、この青年が映画全体を通してほとんど説明されない点です。名前もなく、背景も語られない。彼はまるで“語りを届けるためだけに存在する人物”として描かれており、それ自体が非常に不穏な印象を残します。
つまりこの旅館の青年は、現代版の“語り部”であり、摩白山にまつわる怪異を人々に伝播する役割を担っていたとも解釈できます。その存在は、物語の核心には触れないが、観客に“語られる怖さ”を直接届ける装置として機能しているのです。
映さずに見せる恐怖演出の美学
CGもジャンプスケアも排した演出意図
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、ホラー映画にありがちなジャンプスケア(突然の大音量やショックカット)やCG演出を一切用いないという手法を採用しています。この“静的ホラー”のアプローチが、本作の最大の特徴のひとつです。
視覚的なショックではなく、“違和感”や“沈黙”が観客をじわじわと包み込むように設計されており、その結果、観る側の想像力を極限まで引き出すことに成功しています。
空間の歪みとカメラワークの恐怖
例えば、長回しや不安定なカメラワークが多用されており、「誰の視点なのかわからない」「今見ている映像が正しいのか確信が持てない」といった感覚を引き起こします。
このように、映像の“視点の揺らぎ”が恐怖の源泉となっている点が特徴的です。見せないことで観客に想像させ、想像させることで恐怖を深める――これは古典的なJホラーにも通じる演出手法ですが、本作ではそれがさらに現代的な映像文法に基づいて再解釈されています。
"映らない"からこそのリアリティ
また、あえて幽霊の姿を明確に映さない、あるいは音で恐怖を煽らないことで、観客は“本当に何かがいたのかどうか”を常に疑いながら観ることになります。この不確かさが、観る者の神経を研ぎ澄ませ、リアルな恐怖体験を生み出しているのです。
つまり、演出面ではあくまで“現実の延長線上にある違和感”を表現し、CGによる過剰なビジュアルや人工的な演出を避けることで、作品全体に一貫した“地に足のついた不気味さ”を実現しています。
恐怖の主体が「観る者自身」に転化する
最後に重要なのは、観客が「映っていない部分を想像する」というプロセスに巻き込まれる点です。ジャンプスケアやゴア描写に頼らない分、恐怖の主体はスクリーン上ではなく、自身の内側に移動していきます。
この内面的な恐怖体験こそが、本作が“見せずに怖がらせる”ことに成功している最も重要な要素です。
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』は、Jホラーの文脈に則りつつ、現代的な恐怖表現のアップデートを図った意欲作であり、その美学はホラーの在り方に一石を投じるものであると言えるでしょう。
伏線や隠された演出から読み解く“静かな仕掛け”

『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』には、明言されずとも意味を持つ隠れ演出や伏線が多数散りばめられています。
これらは観客の“記憶の揺らぎ”を意図的に刺激し、再鑑賞時にこそ真価を発揮する仕組みになっています。
フレームの端に映る“誰か”の存在
VHSを再生するシーンで、一瞬だけフレームの端に映り込む小柄な人影。
これは弟・日向ではないとされており、劇中でも全く説明されません。
「観客が気づくかどうかで、作品の恐怖が変質する」というスタッフの言葉通り、記憶の再構成に干渉する“視覚のトラップ”となっています。
鏡・ガラスに現れる“ずれた現実”
車内のミラーや廃墟の窓ガラスなど、反射面に映る映像と実際の空間が一致しない場面が散見されます。
中でも、久住が母の死について語られる場面で背後に影が映る描写は、説明が一切ありません。
監督はこれについて、「説明しないことで観た人の記憶を揺さぶる狙いがあった」と述べています。
ジャンパーが示す“揺らぐ同一性”
ラストに登場する日向のジャンパーは、中盤のビデオ映像で敬太が着ているように見える場面があります。
この服の微妙な違いは、「記憶の混同」「人格の揺らぎ」といったテーマを象徴しているとも考えられます。
特に“ジャンパーだけが残る”という描写は、肉体なき存在=記憶だけの亡霊というメタファーとしても読み取れます。
旅館の青年は“素人”が語る本物の怪談?
印象的な旅館の青年による語りシーンでは、実は台詞の多くがアドリブ。
演じていたのはプロの俳優ではなく、ドキュメンタリー出演歴のある一般人でした。
この“素人感”が、「これは本当にあった話なのでは?」という錯覚を呼び込み、作品のリアリティを底上げしています。
『霊的ボリシェヴィキ』との構図的リンク
暗闇から手が出てくる演出や、ノーカット長回しによる廃墟描写は、監督が脚本を務めた別作品『霊的ボリシェヴィキ』と酷似しています。
これは明確にファン向けのオマージュであり、映像的にも「前作との文脈の共有」を感じさせる隠れ演出です。
“手の主”は誰だったのか?
久住が廃墟で“手”に掴まれるシーンには、前後に司らしき人影が映るカットが存在します。
これにより、「すでに司は異界に囚われていたのでは?」という解釈が可能になります。
明言されないがゆえに、観客の想像力を刺激する“余白”の演出です。
『飯沼一家に謝罪します』とのゆるやかな繋がり
映像内の地名や事件年表の記述が、モキュメンタリー作品『飯沼一家に謝罪します』と一致する点があります。
これらは物語の直接的な繋がりではなく、“ゆるやかな世界観の共有”を示す仕掛けです。
この“TXQユニバース”的な設計も、監督作品における特徴の一つです。
観客の“記憶”を揺さぶる仕掛けとして
本作におけるこのような演出は、ジャンプスケアや過剰な説明に頼ることなく、観客の記憶や感覚にじわじわと浸透していきます。
再鑑賞時にこそ、「これは初見で気づいただろうか?」という疑念が生まれ、自分の記憶すら信じられなくなる恐怖へとつながるのです。
“映っていたような気がするが、確認できない”──この不確かさこそが、本作最大のホラー演出と言えるのかもしれません。
『ミッシング・チャイルド・ビデオテープ』ネタバレ考察まとめ──映像と記憶が交錯する恐怖の構造
- VHSが単なる記録媒体ではなく“記憶を呪いに変える装置”として機能する
- 主人公・敬太は弟・日向の失踪の真相を追ううちに映像の中に“取り込まれていく”
- 記録・記憶・現実の境界が曖昧になっていく構成が全編にわたって貫かれている
- 旅館の青年による怪談が“語りが現実を侵食する”ホラーの構造を象徴している
- ジャンプスケアやCGを排した“静的恐怖”によって観客の内面に不安が浸透する
- 摩白山は“語られなかった罪や記憶を封じ込める場所”として物語の中核を担う
- 司の存在が“敬太の内面に宿る罪悪感の具現化”として描かれている可能性が高い
- 美琴の巻き込まれは“他人の記憶に触れたことによる感染的な呪い”を象徴する
- 映像に映る異物やズレが“記憶の揺らぎ”を体験させる仕掛けとして配置されている
- 映像の中にだけ現れる人影や鏡面の歪みなどが“不確かな視覚”を誘発する
- “ジャンパー”のミスリード演出が人格と記憶の同一性の揺らぎを表している
- 映画と短編『未必の故意』は“語られなかった罪”を巡るパラレル構造を持つ
- 「記録が存在を保証する」という前提が破壊される恐怖が物語の根底にある
- 幽霊の描写はあえて曖昧にされ、罪悪感の投影とも取れる二重構造が施されている
- ファン向けの構図引用や世界観の“ゆるやかな共有”が監督作品に一貫して存在する