
こんにちは、物語の知恵袋のふくろうです。
映画『湯を沸かすほどの熱い愛』は、「泣いた」「忘れられない」という高評価がある一方で、「気持ち悪い」「ひどい」「怖い」「感動を押しつけられているように感じる」といった厳しい感想も目立つ作品です。
ここまで評価が分かれるのは、映画の出来が単純に良い・悪いという話ではありません。家族への愛情をかなり大胆な方法で描いているため、その表現を受け入れられるかどうかで印象が大きく変わるからです。
特に評価を左右するのが、安澄へのいじめへの向き合い方、双葉が家族の人生へ深く踏み込んでいく姿、感情を大きく動かす演出、そして最後の銭湯を使った葬送表現でしょう。
一方、宮沢りえや杉咲花の演技、手話や高足ガニをはじめとした伏線、血縁を超えて家族がつながっていく物語には、かなり見応えがあります。
「泣ける映画だから絶対おすすめ」と決めつけるのではなく、なぜ絶賛と酷評の両方が生まれるのかを知ったうえで、自分に合いそうな作品か判断することが大切かなと思います。
この記事でわかること
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気持ち悪い・ひどいと言われる理由
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ラストが怖い・ホラーと感じられる理由
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泣ける・感動すると高評価される理由
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面白い人と合わない人の違い
この記事では物語後半とラストについて触れています。結末を知らずに鑑賞したい方はご注意ください。
『湯を沸かすほどの熱い愛』の評価
まず押さえておきたいのは、本作が「感動作として評価されている映画」であると同時に、その感動の作り方そのものを苦手とする人もいる作品だということです。
絶賛する人と酷評する人では、同じ場面を見ても受け取り方がまったく異なります。
高評価で目立つポイント
高く評価されやすいのは、何と言っても俳優陣の演技です。
主人公・幸野双葉を演じる宮沢りえは、家族の前では明るく振る舞いながら、死が近づくにつれて隠しきれなくなる恐怖や疲労まで表現しています。
安澄役の杉咲花も印象的です。学校でいじめに遭い、自分の気持ちをうまく伝えられなかった少女が、さまざまな出来事を経験して変化していく過程には説得力があります。
そして、手話、高足ガニ、エジプト、色など、前半に登場した何気ない要素が後半で意味を持つ脚本も見どころです。
最初は「なぜこの描写が必要なのだろう」と思った場面が、後になって家族の秘密や双葉の思いにつながる。この仕掛けが感情を大きく動かします。
高評価につながりやすいポイント
宮沢りえと杉咲花を中心とした演技、前半から積み重ねられる伏線、血縁だけでは説明できない家族関係、そしてタイトルまで回収するラストが大きな魅力です。
低評価で目立つポイント
反対に、低評価につながりやすいのは、物語の「やりすぎ」に見える部分です。
安澄のいじめへの対応は、その代表でしょう。
また、双葉は限られた時間の中で、夫を連れ戻し、鮎子を受け入れ、安澄を実母へ会わせ、旅先で出会った拓海の人生にも関わっていきます。
これを「人を変えるほどの愛情」と見ることもできますが、「何もかも双葉の考え通りに進みすぎる」と感じる人もいるはずです。
さらに、人間ピラミッドや衝撃的なラストなど、現実味より感情を優先した場面もあります。
そのため、日常生活に近いリアリティを求めて見ると、途中で気持ちが離れてしまう可能性があります。
| 高評価につながる部分 | 低評価につながる部分 |
|---|---|
| 宮沢りえ・杉咲花らの演技 | 感動を狙った演出が分かりやすい |
| 伏線が後半でつながる脚本 | 出来事が都合よく進むように見える |
| 血縁を超えた家族愛 | 双葉の価値観を押しつけているように見える |
| 母娘の感情のぶつかり合い | いじめへの対応に違和感がある |
| タイトルにつながる大胆なラスト | ラストが不気味・悪趣味に見える |
気持ち悪いと言われる理由
検索すると「湯を沸かすほどの熱い愛 気持ち悪い」という言葉が出てくることがあります。
これは作品全体がホラー映画のように不快というより、いくつかの場面で描かれる愛情や身体表現、ラストの見せ方に抵抗を感じる人がいるためでしょう。
ラストの葬送表現が衝撃的
最も大きいのは、やはりラストです。
双葉が亡くなったあと、幸の湯で葬儀が行われます。
そして物語は、双葉を葬るための火によって銭湯の湯が沸き、その湯に家族が入ることを示すような結末へ進みます。
ここを「死んだ後も家族を温め続ける母」と受け取れば、美しい象徴になります。
しかし、実際の光景として想像するとどうでしょう。
母親の身体を燃やした熱で湯を沸かし、家族がその風呂に入る。
このイメージだけを現実的に考えれば、不気味だと感じても不思議ではありません。
それまで家族の日常を比較的現実的に描いていた映画だからこそ、最後の飛躍が余計に目立ちます。
少女の身体を使った演出
安澄のいじめを描いた場面も、評価が分かれます。
制服を隠された安澄は、制服を返してほしいという意思を示すため、教室で体操服を脱ぐという行動に出ます。
映画の中では、自分の気持ちを表に出せなかった安澄が、自分の意思で理不尽に立ち向かう転換点です。
ただ、思春期の少女を下着姿にする必要があったのかという疑問は残ります。
また、鮎子が母親を待ち続けた末に失禁してしまう場面もあります。
緊張から解放された幼い子どもの状態を表す場面として読むことはできますが、その見せ方自体に抵抗を覚える人もいるでしょう。
これらの場面には物語上の意味がありますが、意味があることと、その表現方法をすべて肯定できることは別です。違和感を持つのも自然な受け止め方だと思います。
愛として許されすぎて見える
双葉は家族のために行動します。
ただ、その愛情は相手の気持ちを待つタイプではありません。
安澄を学校へ向かわせ、出生の秘密を告げ、実母のもとへ向かわせる。
鮎子を家族へ迎え、一浩を連れ戻し、拓海にも人生の方向を示す。
映画の中では、双葉の行動によって多くの人物が前へ進んでいきます。
だから感動できる反面、「双葉が愛しているなら、その方法まで正しいことになるのか」という疑問も生まれます。
私はここを単純に「理想の母親」と受け取らなくてもいいと思っています。
双葉は愛情深い人物ですが、残された時間が少ないため、普通なら何年もかけて向き合う問題を急いで終わらせようとしています。
その焦りがあるから、優しさと同時にかなり強引な行動も出てくるのでしょう。
ひどい・酷評される理由
「ひどい」「つまらない」といった評価では、ラストだけではなく作品全体の作り方が批判されています。
特に意見が分かれるのが、いじめ、感動演出、双葉を中心に進みすぎる人間関係です。
いじめへの向き合い方が現実的ではない
安澄はいじめを受け、学校へ行くこと自体がつらくなっています。
そんな娘に対して、双葉は逃げ続けることを認めません。
双葉には「自分が死んだあとも安澄が生きていけるようになってほしい」という思いがあります。
その気持ちは理解できます。
ただし、現実のいじめでは被害を受けている子ども本人だけに解決を求めるべきではありません。
学校や周囲の大人が安全を確保する必要があります。
そのため、安澄が自分一人でいじめへ立ち向かう展開を「素晴らしい教育」とそのまま受け取ることには注意が必要でしょう。
映画上では少女の変化を描いた出来事として成立しても、現実の対応方法として見ると疑問が残ります。
泣かせようとしているように見える
本作には、感情を動かす場面が非常に多くあります。
余命宣告、いじめ、出生の秘密、実母との対面、母に捨てられた過去、人間ピラミッド、病室での別れ、葬儀。
これだけ続けば、涙が止まらない人がいるのも分かります。
ただ、感動を誘う仕掛けが見えやすい映画でもあります。
「次はここで泣かせるのだろう」と演出の意図を先に感じてしまう人にとっては、物語へ入り込みにくくなります。
音楽や台詞、伏線がきれいにつながりすぎることも、人によっては「あざとい」と感じる原因になります。
つまり、伏線回収の分かりやすさは長所でもあり、同時に好みが分かれる部分でもあるのです。
人間ピラミッドがやりすぎに見える
病状が進んだ双葉のため、一浩たちは病院の外で人間ピラミッドを作ります。
双葉がエジプトへ行きたいと語っていたことへの、不器用な答えです。
この場面を見て涙があふれる人もいれば、「そこまでやると逆に笑ってしまう」と感じる人もいます。
リアルな行動として考えると確かに突飛です。
ただ、ここで大切なのはピラミッドそのものではないでしょう。
これまで人のために動き続けてきた双葉が、今度は周囲から何かを返してもらう側になります。
そして、みんなの姿を見た双葉は、自分がずっと押し込めていた「もっと生きたい」という気持ちを表します。
人間ピラミッドを受け入れられるかより、それをきっかけに母という役割の奥に隠していた双葉自身の本音が出てくることに意味があると感じます。
拓海の話が本筋から外れて見える
松坂桃李演じる向井拓海も、必要性を疑問視されやすい人物です。
双葉たちは旅行中にヒッチハイクをしている拓海と出会います。
本筋だけを考えれば、双葉と安澄の家族問題だけでも十分に物語は成立します。
そのため拓海のエピソードを余計だと感じる人がいても不思議ではありません。
ただ、拓海を入れることで、双葉の影響が血縁のある家族だけに限定されないことが分かります。
双葉は偶然出会った青年にまで踏み込み、彼が次の場所へ向かうきっかけを作ります。
拓海は、双葉が作っていく「血縁とは別のつながり」を広げる役割を持っているのでしょう。
◆ふくろうのワンポイント
本作はリアリティだけで見ると「そんなに都合よく人は変わらない」と感じる場面があります。ただ、人と人が出会ったことで人生が少し変わるというテーマを優先して見ると、拓海を登場させた意味も見えやすくなりますよ。
ラストが怖いと言われる理由
『湯を沸かすほどの熱い愛』はホラー映画ではありません。
それでも「最後だけホラーみたい」「怖かった」という感想が出るのは、終盤で映画の現実感が大きく変化するからです。
日常劇から突然異様な映像になる
物語の大部分は、家族の生活を描いた人間ドラマです。
銭湯を再開する。
食卓を囲む。
学校へ行く。
旅行する。
病院で家族と話す。
ところが最後には、双葉を葬る火と、その熱で温まる幸の湯が重ねられます。
それまでの世界観から考えると、かなり大胆な飛躍です。
だから、象徴的な映像として受け取る準備ができていないと、急に別ジャンルへ入ったような感覚になるのでしょう。
赤い煙が不気味にも見える
さらに印象的なのが煙突から上がる赤い煙です。
普通の煙ではない鮮やかな赤。
赤は双葉を象徴する色として見ることができます。
火、情熱、生命、愛情。そうした意味が一つに重ねられています。
そのため、双葉が空へ昇っていくような幻想的な場面として見ることもできるでしょう。
しかし、母親を葬った直後に赤い煙が立ち上がる映像は、見方によっては相当に不気味です。
「美しい」と「怖い」が同時に成立してしまうところが、このラストの独特さだと思います。
炎の中の足も恐怖につながる
ラストでは、炎の奥に人の足のように見えるものがあると受け取る人もいます。
それを双葉本人の足と考えると、象徴的だったラストが急に生々しくなります。
ただ、映像だけで「間違いなく双葉の足」と断定する必要はありません。
物語全体として、双葉を葬った熱が幸の湯につながっていることは十分に伝えられています。
足らしき映像は、その結末をさらに印象づける要素の一つとして受け取る程度でいいでしょう。
泣けると高評価される理由
ここまで批判される部分を見てきましたが、それでも本作が多くの人の心を動かしていることも事実です。
その理由は、単に「余命ものだから泣ける」というだけではありません。
宮沢りえの双葉が人間らしい
双葉は非常に行動力のある女性です。
自分が死に近づいているにもかかわらず、家族の問題を優先します。
ただし、本当に何も怖くないわけではありません。
病気を知らされた直後には絶望し、身体は徐々に動かなくなり、最後には「もっと生きたい」という思いがあふれます。
この場面があるから、双葉は単なる「何でもできる完璧なお母さん」では終わりません。
死ぬのは怖い。
家族と離れたくない。
それでも、自分に残された時間でやるしかない。
その葛藤が宮沢りえの表情や声から伝わるため、双葉という人物に説得力が生まれています。
杉咲花の安澄に感情移入できる
安澄には、物語の中で次々と大きな出来事が起こります。
学校ではいじめられています。
父親はいなくなっています。
突然知らない少女が妹として現れます。
さらに、自分を育ててくれた双葉が本当の母親ではないと知らされます。
そのうえ、双葉の命まで残りわずかです。
安澄の立場で考えると、あまりにも多くのことが短期間に起きています。
杉咲花は、泣く場面だけではなく、言葉にできない戸惑いや怒りを表情で見せています。
序盤と終盤を比べると、別人のように急変するのではなく、少しずつ自分で物事を受け止める少女へ変わっていくのが分かります。
手話と高足ガニの伏線が響く
本作でも特に評価したいのが、安澄と実母をつなぐ伏線です。
安澄は以前から手話を使えます。
また、幸野家には「酒巻」という人物から高足ガニが届いていました。
中盤の旅行で、この二つの意味が一気につながります。
酒巻君江は安澄の生みの母親で、耳が聞こえません。
つまり双葉は、いつか安澄が実母と会う日を見越して、娘が自分自身の言葉で君江と話せるように準備していたことになります。
この事実が分かった瞬間、それまで何気なかった手話が「双葉が安澄の未来をどこまで考えていたか」を示すものへ変わります。
こういう伏線の使い方は、本作の大きな魅力でしょう。
血のつながりを超えた家族が描かれる
幸野家は、血縁だけを見ればかなり複雑です。
双葉は安澄の生みの母ではありません。
鮎子も双葉の実子ではありません。
拓海にも血縁はありません。
それでも、最終的には双葉を中心として人が集まります。
ここから見えてくるのは、家族を決めるのは血だけではないという考え方です。
誰を育てたのか。
誰を迎えに行ったのか。
誰が苦しいときに隣にいたのか。
そうした時間の積み重ねが家族を作っていきます。
◆ふくろうのワンポイント
双葉と安澄に血のつながりがないと分かってから序盤を振り返ると、二人の関係の見え方が変わります。産んだから母なのではなく、安澄の人生を引き受け続けたことで母になった。その部分が本作の中心にあると思います。
双葉の「生きたい」が胸に残る
双葉は、余命を知らされてからほとんど自分のために時間を使いません。
家族のためにやるべきことを次々と進めます。
だからこそ、最後に「生きたい」という本音が出たときの落差が大きくなります。
死を受け入れた立派な母ではありません。
本当はもっと生きたい人です。
家族が大切だからこそ、別れたくない。
この当然の感情を最後まで隠していたことが分かるため、それまでの双葉の行動も違って見えてきます。
タイトルとラストを高く評価する理由
ラストは本作最大の酷評ポイントであり、同時に高く評価されるポイントでもあります。
ここまで評価が逆転する場面は珍しいかもしれません。
愛が本当に湯を沸かす
『湯を沸かすほどの熱い愛』という題名を初めて見たとき、多くの人は比喩だと考えるでしょう。
それほど深い愛情。
家族を包み込む温かさ。
しかし、最後にはその比喩が文字どおりの映像へ変わります。
双葉の愛が、本当に家族が入る湯を温める。
かなり大胆です。
少しやりすぎとも言えます。
それでも、タイトルと結末がここまで直接つながるからこそ、鑑賞後に題名を見たときの印象が変わります。
現実ではなく映画の比喩として見る
このラストを楽しめるかどうかは、「実際にそんなことをするのか」という視点から離れられるかが大きいでしょう。
現実の葬送方法を描いた場面だと考えると、疑問や不快感が先に来ます。
しかし映画の最後だけ、現実から少し離れた寓話のような表現になったと考えると意味が見えてきます。
双葉は生きている間、周囲の人を温め続けた。そして亡くなったあとも、その温かさは家族の中に残った。
その抽象的な意味を、銭湯の「湯」という具体的なものへ変えたのがラストです。
この飛躍を美しいと思う人と、悪趣味だと思う人がいる。
どちらの感想も理解できます。
面白い人とつまらない人の違い
では、『湯を沸かすほどの熱い愛』はどのような人に合うのでしょうか。
口コミの評価が割れている作品なので、見る前に自分が何を映画へ求めているか考えると判断しやすくなります。
感動しやすい人の特徴
家族関係を描いた作品が好きな人には合いやすいでしょう。
特に、血縁だけではない親子関係、母娘のすれ違い、残される家族の再出発といった題材が好きなら、心に残る場面が多いはずです。
また、伏線が後からはっきり回収される物語が好きな人にも向いています。
「あの場面はここにつながっていたのか」と分かる楽しさが何度もあります。
多少現実離れしていても、映画らしい比喩や大胆な演出として楽しめる人なら、ラストまで含めて好意的に受け取りやすいと思います。
つまらないと感じやすい人
一方、徹底したリアリティを求める人には合わない可能性があります。
「実際なら学校はどう対応するのか」「こんな短期間で家族関係が変わるのか」「そこまで他人の人生へ介入するのか」と考え始めると、疑問が積み重なります。
また、感動的な音楽や涙を誘う場面が続く作品が苦手な人も、演出をあざとく感じるかもしれません。
映画に泣かされること自体が苦手というより、泣く場所が分かりやすく用意されている作品を好まない人には相性が良くないでしょう。
双葉を好きになれるかが大きい
最終的には、双葉という人物をどう受け取るかがかなり重要です。
双葉を「家族の未来のために最後まで動いた母」と見るなら、ほとんどの行動が胸に響きます。
反対に、「自分の考えを家族へ押し通している人」と見ると、同じ場面が苦しくなります。
特に安澄との関係には、その二面性がよく出ています。
愛情は間違いなくある。
でも、その愛し方まで正しいのか。
本作はそこに明確な答えを出していません。
だからこそ鑑賞後に意見が割れるのだと思います。
レビューを見るときのポイント
『湯を沸かすほどの熱い愛』の口コミやレビューを見ると、最高評価に近い感想と最低評価に近い酷評が同じ作品に並ぶことがあります。
どちらか一方だけを見て作品の価値を決めてしまうのは、少しもったいないかもしれません。
高評価と低評価は矛盾しない
「泣いた」という人と「泣かせようとしていて冷めた」という人は、まったく別の映画を見ているわけではありません。
同じ演出に対する反応が違うだけです。
人間ピラミッドを見て家族の思いに胸を打たれる人もいる。
一方では、演出が大げさすぎると笑ってしまう人もいます。
ラストも同じです。
「死んでも家族を温める母」と感じれば感動的。
「遺体を燃やした熱で入浴する家族」と考えれば不気味。
視点が少し変わるだけで、評価が反対になる映画なのです。
演技の評価は比較的共通している
物語への評価が分かれる中でも、俳優陣については好意的に見られやすいのが特徴です。
特に宮沢りえと杉咲花。
脚本の展開に納得できない人でも、二人の演技には惹かれたという感想が出やすい作品です。
オダギリジョーも、一浩という頼りない夫の雰囲気によく合っています。
伊東蒼演じる鮎子も、大人に振り回される子どもの寂しさを印象的に表しています。
ストーリーだけを見るより、人物の表情や間を見る映画として楽しむ方法もあります。
時間を置くと評価が変わることもある
本作は、一度目と二度目で印象が変わりやすい映画だと思います。
最初は安澄の出生など、物語上の秘密に意識が向きます。
二度目は、手話や色、会話の意味など、結末を知っているから分かる描写が見えてきます。
反対に、初見では感動したものの、時間を置いて見ると「少し出来すぎているな」と感じる場合もあるでしょう。
自分の年齢や家族との関係によっても、双葉に対する印象は変化するかもしれません。
◆ふくろうのワンポイント
レビュー点数だけを見るより、「その人は何を評価して、何に引っかかったのか」を見るほうが参考になります。本作の場合、同じラストでも最高の場面と感じる人と、最大の欠点と感じる人がいる。それだけ受け取り方の幅がある映画です。
『湯を沸かすほどの熱い愛』は傑作?
私は、この作品を「誰が見ても傑作」と言い切る必要はないと思っています。
むしろ、ここまで意見が割れること自体が『湯を沸かすほどの熱い愛』らしさです。
無難な家族映画にしていれば、ラストへの拒否感は少なかったでしょう。
安澄のいじめも、もっと現実的な解決方法を選べたはずです。
人間ピラミッドを作らず、静かに双葉を見送ることもできました。
しかし、それではここまで印象に残る作品にはならなかったかもしれません。
中野量太監督は、現実そのものを再現することより、人物が抱えている感情を目に見える形まで膨らませる方法を選んでいます。
その結果、温かいのに怖い。
泣けるのにあざとい。
愛情深いのに押しつけがましく見える。
相反する感情が同じ映画の中に残りました。
この作品を好きになれるかどうかは、双葉の母性愛をどこまで肯定的に受け取れるか、そして現実から飛び出す演出を映画らしい表現として許容できるかで大きく変わると思います。
よくある疑問をまとめて解説
最後に、『湯を沸かすほどの熱い愛』の評価や感想を調べるときに疑問になりやすいポイントをまとめます。
湯を沸かすほどの熱い愛のFAQ
Q1. 『湯を沸かすほどの熱い愛』はなぜ気持ち悪いと言われるのですか?
A. 主な理由は、少女の身体を使った一部の演出、双葉が家族へ深く介入する姿、そして最後に双葉を葬る火で幸の湯を沸かしたと受け取れる結末です。これらを愛情の象徴と見る人がいる一方、生々しく考えると不気味だと感じる人もいます。
Q2. ラストがホラーや怖いと言われるのはなぜですか?
A. それまで現実的な家族ドラマとして進んでいた物語が、最後に銭湯での葬送、炎、赤い煙という幻想的で異様な映像へ変化するためです。母が亡くなったあとも家族を温めるという比喩としては美しい反面、現実の出来事として想像すると怖さが生まれます。
Q3. 逆に泣ける・感動すると評価される理由は?
A. 宮沢りえと杉咲花の演技、安澄と双葉の母娘関係、手話や高足ガニなどの伏線、血縁を超えて家族ができていく物語が評価されています。特に、家族のために動き続けた双葉が最後に「生きたい」という本心を見せる流れは、本作を代表する感情的な場面です。
Q4. 『湯を沸かすほどの熱い愛』はつまらない映画ですか?
A. 好みが分かれやすい作品です。家族ドラマや伏線回収、感情を前面に出した映画が好きなら楽しみやすいでしょう。一方、徹底したリアリティや控えめな演出を好む人には、出来すぎた展開や感動演出が合わない可能性があります。
Q5. 見るか迷っている人にはおすすめできますか?
A. 宮沢りえや杉咲花の演技を見たい人、母娘や家族を扱った作品が好きな人には一度見てほしい映画です。ただし、いじめへの向き合い方やラストにはかなり大胆な表現があります。万人向けの感動作というより、鑑賞後に「愛とは何だったのか」を考えたい人に向いている作品でしょう。
『湯を沸かすほどの熱い愛』まとめ
映画『湯を沸かすほどの熱い愛』は、評価が大きく分かれる作品です。
- 宮沢りえと杉咲花らの演技は大きな見どころ
- 手話や高足ガニなどの伏線が後半でつながる
- 血縁を超えた家族のあり方が描かれている
- 安澄のいじめへの向き合い方には賛否がある
- 感動を狙った演出があざといと感じる人もいる
- 人間ピラミッドは感動と失笑の両方を生みやすい
- ラストは美しい象徴にも不気味な光景にも見える
- タイトルの意味が最後の場面で完成する
私がこの映画で一番興味深いと感じるのは、同じ場面が正反対の評価を生んでいることです。
双葉の行動を見て、「こんな母親に愛されたら幸せだ」と感じる人がいる。
その一方で、「本人のためと言いながら自分の価値観を押しつけている」と感じる人もいます。
最後の幸の湯も同じです。
「亡くなったあとも家族を温めるお母ちゃん」と受け取れば、とても温かいラストです。
しかし、「母親を葬った火で沸かした湯に入る家族」と現実的に考えれば、怖さや気持ち悪さが残ります。
どちらか一方だけが正解ではありません。
むしろ、愛情の美しさと危うさを同時に見せているからこそ、ここまで賛否が続く作品になったのでしょう。
単純に泣きたい人だけの映画ではありません。
「愛しているなら、どこまで相手の人生へ踏み込んでいいのか」「血がつながっていなくても家族になれるのか」「相手のためにする行動は、本当に相手のためなのか」といった問いも残ります。
そして最後には、温かさと不気味さを一つの映像にしてしまう大胆な結末。
それを見て感動するか、引いてしまうか。
あなたはどう感じるでしょうか。
少なくとも、見終わったあとに何も残らないタイプの映画ではありません。好きでも嫌いでも、双葉と「幸の湯」のことをしばらく考えてしまう。そこに『湯を沸かすほどの熱い愛』ならではの魅力があると思います。