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映画『奴らを高く吊るせ!』ネタバレ|あらすじ・結末と感想を解説

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こんにちは、物語の知恵袋のふくろうです。

1968年公開の映画『奴らを高く吊るせ!』は、クリント・イーストウッド主演の西部劇です。タイトルだけを見ると、悪党を次々と倒していく豪快な復讐劇を想像するかもしれません。

ところが実際に観てみると、かなり印象が違いました。主人公ジェド・クーパーが追いかけるのは、自分を殺しかけた男たちです。それなのに物語が進むにつれて、「復讐することが本当に正義なのか」「裁判による死刑なら正しいと言えるのか」という疑問がどんどん大きくなっていくんですね。

私が特に面白いと感じたのも、この部分でした。クーパーを吊るした男たちは明らかに間違っています。しかし、だからといって法による裁きが常に正しいわけでもない。私刑と司法の境目をあえて曖昧にすることで、単純な勧善懲悪では終わらない西部劇になっています。

ここからは映画『奴らを高く吊るせ!』のあらすじを結末までネタバレ込みで振り返りながら、ラストの意味、フェントン判事の考え方、クーパーが最後に何を選んだのかまで詳しく見ていきます。

この記事でわかること

  • 『奴らを高く吊るせ!』のあらすじと結末

  • ジェド・クーパーが復讐をやめていく理由

  • フェントン判事と法による正義の意味

  • ラストで再び馬を走らせる場面の考察

映画『奴らを高く吊るせ!』とは

イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』でガンマンのジェド・クーパーが西部の町に立つ
イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』でガンマンのジェド・クーパーが西部の町に立つ

まずは作品そのものについて確認しておきましょう。物語だけでなく、クリント・イーストウッドの俳優人生を考えるうえでも興味深い位置にある映画です。

作品情報と基本データ

項目 内容
邦題 奴らを高く吊るせ!
原題 Hang 'Em High
製作年 1968年
製作国 アメリカ
ジャンル 西部劇
上映時間 約114分
監督 テッド・ポスト
脚本 レナード・フリーマン、メル・ゴールドバーグ
主演 クリント・イーストウッド
音楽 ドミニク・フロンティア
配給 ユナイテッド・アーティスツ

作品情報については、AFI Catalogでも監督テッド・ポスト、主演クリント・イーストウッド、脚本レナード・フリーマンとメル・ゴールドバーグなどのクレジットを確認できます。(出典:AFI Catalog「Hang 'Em High」

本作の特徴
主人公は復讐する理由を十分に持っているのに、物語が進むほど復讐そのものに迷い始めます。そのため、銃撃戦を楽しむだけの西部劇というより「人が人を裁いてよいのか」を描いた社会派ドラマとして見ると面白さが増します。

主要キャストと登場人物

主人公ジェド・クーパーを演じるのはクリント・イーストウッドです。かつて保安官だった経験を持つカウボーイで、物語の冒頭で牛泥棒と殺人の犯人に間違えられ、ウィルソンたちに縛り首にされます。

雑貨店を営むレイチェルを演じるのはインガー・スティーヴンス。彼女もまた凄惨な犯罪の被害者で、夫を殺した男たちを捜し続けています。クーパーとは被害者としての痛みを共有する人物です。

ウィルソン元大尉を演じるのはエド・ベグリー。クーパーを吊るした9人の中心的人物ですが、典型的な無法者として描かれているわけではありません。仲間の牧場主が殺害されたと信じ、その犯人を裁こうとして暴走してしまった男です。

そして物語のテーマを語るうえで欠かせないのが、パット・ヒングル演じるアダム・フェントン判事。法の番人でありながら、非常に厳しい判決を次々と下します。

ブリス連邦保安官を演じるベン・ジョンソン、ミラー役のブルース・ダーンなど、西部劇好きなら気になる俳優も出演しています。

◆ふくろうのワンポイント
私はフェントン判事に注目して観ると、この映画の印象がかなり変わると思います。一見すると頑固で冷酷な判事ですが、彼自身も「自分の判決は本当に正しいのか」という迷いを抱えているんですよ。

イーストウッドの転換点となる作品

クリント・イーストウッドはテレビドラマ『ローハイド』で知られるようになり、その後イタリアへ渡ってマカロニ・ウエスタン作品で世界的な人気を獲得しました。

『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続・夕陽のガンマン』などで形成されたのは、寡黙で銃の腕が抜群という強烈なガンマン像です。

『奴らを高く吊るせ!』は、そんなイーストウッドがアメリカ映画へ本格的に戻った時期の作品として見ることができます。ただし、ここで演じるクーパーは単なる無敵のガンマンではありません。

怒りもあれば迷いもある。銃による決着を選ぶこともありますが、そのたびに「それで本当にいいのか」という疑問が残ります。

この感覚は、後年のイーストウッド作品にもつながっています。とりわけ暴力と正義を正面から問い直した『許されざる者』のネタバレ考察と見比べると、イーストウッドが長年向き合ってきたテーマが見えてきます。

奴らを高く吊るせ!のネタバレあらすじ

イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』でジェド・クーパーが9人の男たちに私刑で縛り首にされる
イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』でジェド・クーパーが9人の男たちに私刑で縛り首にされる

ここからは物語を最初から結末まで追っていきます。未鑑賞の方にとっては完全なネタバレになりますので、その点だけ注意してください。

クーパーが突然縛り首にされる

舞台は西部開拓時代のオクラホマ準州。元保安官のジェド・クーパーは、購入した牛を連れて荒野を移動していました。

すると突然、ウィルソン元大尉を中心とする9人の男たちに取り囲まれます。

男たちが追っていたのは、仲間である牧場主を殺害して牛を盗んだ犯人でした。そしてクーパーが連れていた牛こそ、その牧場から盗まれたものだったのです。

もちろんクーパーは犯人ではありません。盗品だとは知らず、別の男から正式に牛を買っただけでした。

ところがウィルソンたちはクーパーの話を十分に聞こうとしません。

殺された仲間への怒りもあり、「牛を持っているのだからこいつが犯人だ」と決めつけてしまいます。裁判にかけることもなく、その場でクーパーを殴り、首に縄をかけました。

木から吊るされたクーパーを残し、男たちは立ち去ります。

映画開始早々、主人公が縛り首。かなり衝撃的な幕開けです。

しかしクーパーは死んでいませんでした。偶然通りかかったブリス連邦保安官が彼を発見し、縄を切って助けます。

冒頭だけで作品のテーマが示される
ウィルソンたちは自分たちを悪人だと思っていません。むしろ「殺人犯を裁いている」という正義感で行動しています。しかし事実確認をせず、法を通さずに処刑しようとした瞬間、その正義は私刑へ変わりました。

無実が証明され保安官になる

ブリスに救出されたクーパーは、囚人たちと一緒にフォート・グラントへ送られます。

そこで待っていたのがフェントン判事でした。

ほどなくして、本物の牛泥棒が捕まったことからクーパーの無実が判明します。彼は正式に釈放されました。

しかし命を奪われかけた本人からすれば、それで終わりにできるはずがありません。首には縄の痕が残り、自分を吊った9人への怒りも消えていませんでした。

そんなクーパーにフェントンは、連邦保安官として働くよう提案します。

元保安官だったクーパーなら適任です。さらに保安官になれば、自分を私刑にかけた男たちを合法的に追跡することもできます。

クーパーは提案を受け入れました。

つまり彼は、完全に復讐を捨てて法の側へ入ったわけではありません。法の力を使って自分を吊った男たちを捕まえようとしているという、かなり危うい状態から始まります。

復讐相手を追う旅が始まる

保安官となったクーパーは、自分を吊った男たちを捜し始めます。

最初に見つけた相手とは銃撃戦になり、クーパーは相手を射殺しました。

ここだけを見ると、期待どおりの復讐西部劇が始まったようにも思えます。

しかし、すぐに状況が変わります。

9人のうちジェンキンスという老人が、自ら名乗り出るのです。ジェンキンスは私刑に参加していましたが、当時もクーパーをいきなり吊るすことには反対していました。

自分たちが無実の人間を殺しかけたと知り、罪悪感を抱いていたのでしょう。

クーパーは彼から仲間たちの情報を聞き出します。

ここでクーパーの復讐心は単純ではなくなってきます。目の前にいるのは、自分を殺そうとした極悪人ではなく、間違った集団の中にいて止め切れなかった老人だからです。

3人の囚人を護送する

その後クーパーは別の任務で、殺人と牛泥棒に関係した3人を追うことになります。

その中には、かつて自分を吊った側にいたミラーもいました。

激しい抵抗を受けながらも、クーパーは3人を生きたまま捕らえ、フォート・グラントへ護送します。

ここが重要です。

自分自身が裁判もなく吊るされた経験をしたクーパーは、容疑者をその場で殺すのではなく、できる限り法廷へ連れて行こうとします。

ところが、その法廷で彼が目にしたものは理想的な司法ではありませんでした。

若者まで絞首刑となる

フェントン判事は、護送されてきた3人に死刑判決を下します。

クーパーは若い2人について、少なくとも殺人そのものへの関与が薄いとして減刑を求めます。

しかしフェントンは受け入れません。

結果として3人全員が絞首刑になります。

町には処刑を見るため大勢の人が集まり、一種の見世物のような空気さえ漂います。

ここでクーパーは強烈な違和感を覚えます。

自分を吊ったウィルソンたちは、裁判をせずに勝手に死刑を執行しました。それは間違いなく私刑です。

しかし今、法廷で正式に死刑判決を受けた者たちも、同じように縄で吊られている。

「手続きがある」という違いだけで、人を吊るす行為そのものは同じではないか。

そんな疑問が、クーパーの中に生まれてきます。

◆ふくろうのワンポイント
この処刑場面を境に、映画の中心は「クーパーは復讐できるか」から「正義とは何なのか」へ移っていきます。私はここが『奴らを高く吊るせ!』で最も大切な転換点だと感じました。

レイチェルとの出会い

フォート・グラントには、雑貨店を営むレイチェルという女性がいます。

彼女は新しい囚人が町へ運ばれてくるたび、その顔を確認していました。

理由は凄惨です。

過去に2人組の男によって夫を殺害され、自身も暴行を受けていました。その犯人を今も探し続けているのです。

つまりレイチェルもまた、クーパーと同じく「自分を傷つけた人間を見つけたい」という思いに囚われています。

二人はやがて互いに惹かれ合います。

恋愛要素だけを見ると本筋から外れているように感じるところもありますが、レイチェルはクーパーのもう一つの姿とも言えるでしょう。

復讐のために時間を費やし続ければ、自分の人生そのものまで過去の犯罪者に支配されてしまう。その危うさをクーパーに見せる人物でもあります。

ウィルソンたちがクーパーを襲撃

一方、クーパーに追われているウィルソンたちも追い詰められていました。

示談金を渡して問題を終わらせようとしますが、クーパーは受け取りません。

クーパーが自分たちを許すつもりがないと知ったウィルソン側は、今度は先にクーパーを殺そうとします。

この展開が皮肉なんですね。

クーパーは次第に復讐への迷いを抱き始めているのに、その心境をウィルソンたちは知りません。

「クーパーは必ず俺たちを殺しに来る」

そう思い込むことで、さらに暴力を重ねてしまいます。

そして公開処刑の日、群衆に紛れて町へ入ったウィルソンの仲間たちはクーパーを銃撃します。

クーパーは瀕死の重傷を負いました。

その彼を救ったのがレイチェルです。懸命な看護によってクーパーは再び生き延びます。

映画冒頭では縛り首から生還し、今度は銃弾からも生還する。身体にはもちろん、心にも傷が積み重なっていきます。

クーパーが最後の決着へ向かう

傷が癒えたクーパーは、ウィルソンたちのもとへ向かいます。

そして反撃してきたトミーとルーミスを銃撃戦で倒しました。

残る中心人物はウィルソンです。

ここまで追ってきたクーパーとしては、自分を吊った張本人と直接向き合うことになるはずでした。

ところが、クーパーがウィルソンのもとへたどり着いたとき、彼はすでに自ら首を吊っていました。

クーパーが望んでいたはずの復讐は、本人の手によって完結することなく終わります。

しかもウィルソンが選んだ死に方は、かつてクーパーに行ったのと同じ「首吊り」です。

かなり象徴的な終わり方ではないでしょうか。

奴らを高く吊るせ!の結末

イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』の結末でクーパーがフェントン判事と法と正義について向き合う
イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』の結末でクーパーがフェントン判事と法と正義について向き合う

ウィルソンが死んだからといって映画は終わりません。むしろ、その後のフェントン判事とのやり取りこそ、本作が伝えたいことが最も表れている場面です。

ウィルソンはなぜ自殺したのか

ウィルソンはクーパーとの最終決闘を選ばず、自ら命を絶ちました。

彼は確かにクーパーを私刑にかけた中心人物です。しかし最初から人を殺すことを楽しむ悪党として描かれていたわけではありません。

仲間の牧場主が殺され、牛が盗まれた。その犯人を見つけたと思い込み、正義感に突き動かされた結果、無実のクーパーを吊ってしまいました。

その後、間違いだったと知っても時間は戻せません。

謝罪だけでクーパーが許してくれる保証もありませんし、自分の仲間たちは次々と追われていきます。

そしてクーパーを殺そうとしたことで、さらに罪を重ねることになりました。

そんなウィルソンが最後に自分の首へ縄をかける。

これは単に「追い詰められたから自殺した」というだけではなく、自分がクーパーに行った私刑が、自分自身へ返ってきたようにも見えます。

ただしクーパー自身は、その刑を執行していません。

ここが大切です。

復讐劇なら主人公が敵を倒して観客に爽快感を与えるところですが、本作は最後の一撃をクーパーから奪います。

そのため決着したはずなのに、妙な空白が残るんですね。

クーパーはなぜバッジを返したのか

フォート・グラントへ戻ったクーパーは、フェントン判事に保安官のバッジを返そうとします。

最大の理由は、法の執行そのものに疑問を持ってしまったからでしょう。

クーパーは自分を吊った男たちを「裁判をせず人を殺そうとした」と批判していました。

しかしフェントンの裁判所も、十分な時間をかけられないまま次々と厳しい判決を下し、人を絞首台へ送っています。

クーパーから見れば、そこには似たものがある。

そこで彼は、拘留されているジェンキンスを釈放するようフェントンに求めます。

ジェンキンスはクーパーを吊った集団の一人ではあるものの、当時から私刑に反対していました。さらに自ら名乗り出ています。

クーパーには、彼まで機械的に罰することが正義だとは思えなくなっていたのでしょう。

しかしフェントンも簡単には折れません。

広大な地域で治安を維持するためには、自分たちが法を執行し続けなければならないと主張します。

一つひとつの事件を完璧に調べる人員も時間もない。それでも誰かが判断しなければ、再び住民による私刑の世界へ戻ってしまう。

フェントン自身、判事である自分が絶対に正しいとは思っていません。

それでも職務から逃げることもできない。

フェントンは単純な悪役ではない
フェントンの判決には問題があります。しかし彼を排除すれば、それで公平な社会になるわけではありません。法廷そのものがなくなれば、ウィルソンたちのように住民が自分の判断で人を吊るす社会へ逆戻りする可能性があります。

ジェンキンス釈放と引き換えに復職

フェントンとクーパーの対立は、最終的に一つの妥協点へたどり着きます。

クーパーが保安官を続けるなら、ジェンキンスを釈放する。

クーパーはその条件を受け入れ、再びバッジを手にします。

この場面は地味ですが、私は映画全体の答えに最も近い場面だと思います。

序盤のクーパーなら、自分を吊った9人全員を罰することが目的でした。誰が積極的だったのか、誰が止めようとしたのかより、「自分を吊った集団」であることが重要だったはずです。

ところが最後のクーパーはジェンキンスを許します。

さらに、嫌気が差したはずの司法制度から完全に離れることもしません。

不完全な法を捨てるのではなく、自分がその中に残って少しでも正しい方向へ動かそうとする。

そこにクーパーの変化があります。

ラストで再び馬を走らせる意味

最後にフェントンは、残るチャーリーとマドウに関する情報をクーパーへ伝えます。

そして逮捕状を手にしたクーパーは、再び馬を走らせます。

ここだけを見ると、「結局また復讐しに行くのか」と思うかもしれません。

しかし冒頭とは立場が違います。

最初のクーパーが求めていたのは、自分を吊った相手への個人的な報復でした。

ラストのクーパーは連邦保安官です。そして手には逮捕状があります。

もちろん個人的な感情が完全に消えたわけではないでしょう。ただ、少なくとも自分の判断だけで相手を吊るす側にはならない。

法の手続きを通して捕らえるために向かうのです。

そのため私は、このラストを「復讐を続ける終わり」よりも「復讐を法の中へ戻す終わり」として見るほうがしっくりきます。

ラストから考える正義の意味

『奴らを高く吊るせ!』が面白いのは、最後まで「この人が完全に正しい」と言える人物がほとんどいないところです。クーパー、ウィルソン、フェントン。それぞれの正義を比べていきます。

復讐と法の裁きは何が違うのか

ウィルソンたちが行ったのは私刑です。

証拠を十分に調べず、裁判もせず、自分たちだけでクーパーを犯人と決めて吊るしました。

だから明確に間違っています。

ではフェントンの裁判所なら正しいのでしょうか。

映画はそこにも疑問を投げかけます。

裁判をしているとはいえ、広大な地域で事件が次々と発生し、十分な審理に時間をかけられません。フェントン自身も間違った判決を下す可能性があることを自覚しています。

つまり本作では、私刑が悪で法が完全な善、という簡単な図式になっていません。

それでも両者には大きな違いがあります。

法には、少なくとも異議を唱える場所があります。

クーパーはフェントンに反論できる。若者の減刑を求めることもできる。ジェンキンスを釈放するよう要求することもできます。

実際、最後にはフェントンの判断を変えさせています。

ウィルソンたちの私刑では、クーパーが何を言っても聞いてもらえませんでした。

だからこの映画は、法が完璧だから法を選べと言っているのではないと思います。

間違いを直す余地があるからこそ、個人の復讐より法を選ぶ。

この違いが大きいのでしょう。

フェントン判事は悪人なのか

フェントンは厳しい判決を下します。

クーパーが若者の減刑を頼んでも受け入れず、結果として絞首刑にしました。

そのため観客から見ると、かなり冷酷です。

しかし映画は彼を悪役として断罪しません。

フェントン自身も、自分が神のように絶対的な判断をできる人間ではないと分かっています。

それでも広い準州の中で、法を機能させる役割を担う人間が必要です。

もし裁判所が機能しなければ、住民たちは犯人らしき人物を捕まえ、自分たちで処刑してしまう。

まさにクーパーが冒頭で経験した世界です。

フェントンが抱えているのは、「不完全な制度を運用する責任」と言えるでしょう。

完璧な答えがないから判断しない、では済まされません。判断しなければ治安そのものが崩れてしまいます。

だから彼は、間違うかもしれないと知りながら判決を出し続ける。

クーパーが最後にフェントンのもとへ戻ったことには、そんな現実を受け入れたという意味もあるのではないでしょうか。

私刑と公開処刑を重ねた理由

映画には首吊りが何度も登場します。

まずクーパー自身が私刑で吊られる。

その後、正式な判決を受けた囚人たちが公開処刑される。

そして終盤では、ウィルソンが自ら首を吊る。

同じ「吊るす」という行為が、まったく違う意味で繰り返されています。

ここがタイトル『奴らを高く吊るせ!』とも結びつくところです。

観客も序盤では、クーパーをあんな目に遭わせた連中など吊るしてしまえ、と思いやすいでしょう。

ところが物語が進むと、「人を吊るす」という行為そのものがどんどん重くなってきます。

若い囚人が処刑される場面を見れば、本当に死刑しかなかったのかと感じる。

そしてウィルソンが自殺しても、爽快な復讐達成にはなりません。

タイトルは復讐をあおる言葉のようでいて、映画本編はむしろその感情を疑わせます。

「奴らを吊るせ」と簡単に言う前に、本当に人を裁き切れるのか。

かなり皮肉の効いた題名だと思います。

ジェンキンスを許した意味

クーパーの変化を最も分かりやすく表している人物がジェンキンスです。

形式だけで言えば、ジェンキンスもクーパーを吊った9人の一人です。

序盤のクーパーなら、当然裁くべき相手だったでしょう。

しかし事情を知るにつれて見方が変わります。

ジェンキンスは当時から私刑に反対していました。それでも止められなかった責任は残りますが、ウィルソンたちとまったく同じではありません。

さらに自分から出頭しています。

クーパーは「9人のうちの一人」という集団で判断するのではなく、ジェンキンス個人が何をしたのかを見るようになったわけです。

これは冒頭のウィルソンたちと正反対。

ウィルソンたちは「盗まれた牛を持っていた」というだけでクーパーを犯人と決めました。

最後のクーパーは、表面的な事実だけで人を裁きません。

だからこそジェンキンスの釈放を求めたのでしょう。

レイチェルが物語に必要な理由

イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』で囚人を見つめるレイチェルとジェド・クーパー
イメージ:映画『奴らを高く吊るせ!』で囚人を見つめるレイチェルとジェド・クーパー

レイチェルとの恋愛については好みが分かれるところです。私自身、物語の中心である司法や復讐の話と比べると、少し流れが止まるように感じる場面もありました。ただし彼女の存在にはテーマ上の意味があります。

クーパーと同じ復讐の被害者

レイチェルは過去の犯罪によって夫を失い、自身も深く傷つけられています。

そして犯人を捜すことをやめられません。

囚人が護送されてくるたびに顔を確認する生活を続けています。

犯人が見つかれば何かが終わると思っているのでしょう。

しかし別の見方をすれば、犯人を捜すことによって彼女の人生は今も事件につなぎ止められています。

クーパーも同じです。

自分を吊った男たちへの復讐を果たすまで前へ進めない。

だから二人が惹かれ合うのは偶然ではありません。

互いに傷を負い、過去の犯罪者によって現在まで縛られている者同士です。

クーパーがレイチェルを見ることで、自分自身がどんな状態にあるのかを客観的に見ることにもなったのではないでしょうか。

恋愛パートはやや弱く感じる

一方で、映画として見るとクーパーとレイチェルの恋愛は少し唐突に感じるところがあります。

二人とも心に傷を抱えているため、近づいていく理由自体は理解できます。しかし復讐、裁判、死刑、私刑という本筋が非常に濃いため、恋愛場面になると物語の緊張感が一度途切れる印象もありました。

レイチェルの過去自体は重いのですが、その出来事と本筋が最後まで大きく交差するわけでもありません。

そのため、人物としてもう少し掘り下げが欲しかったという感想は残ります。

ただ、彼女を単なる恋人役として見るのではなく、「復讐だけを目的に生き続けた場合のクーパーの未来」として見ると役割が分かりやすくなります。

奴らを高く吊るせ!のレビューと感想

ここまで結末を含めて振り返ってきましたが、最後に映画全体についての感想をまとめます。1968年の西部劇でありながら、正義や司法について考えさせる内容は今観ても十分に面白い作品でした。

単純な復讐劇ではないのが面白い

私が一番好きなのは、観客が期待する復讐の爽快感を途中から崩してくるところです。

冒頭でクーパーが吊られた瞬間、当然「こいつら全員に報いを受けさせてほしい」と思います。

しかも主演はクリント・イーストウッド。

ここから一人ずつガンマンとして倒していくのだろう、と予想するのは自然です。

ところが本作は、そう簡単には気持ちよく復讐させてくれません。

相手には相手の事情があり、クーパー自身も死刑に疑問を抱き始める。フェントンにも言い分があり、誰を倒せば問題が解決するという話ではなくなっていきます。

特に印象に残るのは、クーパーが「自分を吊った人間」と「裁判所が吊るす人間」の違いに迷い始めるところ。

合法か違法かという違いはあります。しかし死ぬ人間からすれば、どちらも縄で命を奪われることに変わりません。

だからこそ観客自身も、最初に抱いた「奴らを吊るしてしまえ」という感情を振り返らされます。

この作りはかなり面白かったですね。

派手さを求めると物足りない部分もある

逆に、最初から最後まで撃ち合いが続く西部劇を期待すると、少し地味に感じるかもしれません。

銃撃戦はありますし、イーストウッドらしい格好よさも十分にあります。

ただし映画の中心にあるのは、徐々に変化していくクーパーの考え方です。

フェントンとの会話や公開処刑の場面など、立ち止まって考えさせる時間が長く取られています。

また、先ほど触れたレイチェルとの恋愛についても、本筋との結びつきがもう一段深ければ、さらに完成度が上がったように感じました。

それでも全体としては、単なる娯楽西部劇で終わらせなかったところに価値があります。

後年のイーストウッド作品にも通じる

『奴らを高く吊るせ!』を観ていると、その後のクリント・イーストウッド作品につながるものを感じます。

イーストウッドは長いキャリアの中で、銃を持った強い男を何度も演じてきました。

一方で作品を深く見ていくと、暴力そのものを単純に肯定しているわけではありません。

正義を実行するために暴力を使ったとして、その暴力は本当に正義なのか。

悪人を殺せば問題は終わるのか。

そんな問いが何度も出てきます。

後年の『許されざる者』では、西部劇が作ってきたガンマン神話そのものをかなり厳しく見つめ直しました。

さらに『グラン・トリノ』のネタバレ考察でも、個人的な報復ではなく別の方法で暴力の連鎖を終わらせる選択が重要になります。

そう考えると『奴らを高く吊るせ!』は、若い時代のイーストウッドがすでに「銃を持った男の正義」を疑い始めていた作品として見ることもできます。

◆ふくろうのワンポイント
イーストウッドの西部劇というだけで観ると少し変わった作品ですが、『許されざる者』まで続く「暴力と正義」というテーマの出発点の一つとして見ると、かなり興味深い一本ですよ。

奴らを高く吊るせ!で考えたいこと

最後に、この映画を観終わったあとに残る問いをもう少し掘り下げてみます。答えが一つに決まらないからこそ、公開から長い年月がたった今でも味わえる部分です。

クーパーは復讐を諦めたのか

完全に諦めたとは言い切れません。

ラストでも残る相手を追って馬を走らせていますし、自分を吊った出来事を忘れたわけでもありません。

ただし「復讐の方法」が変わっています。

最初は自分の怒りを晴らすために相手を追っていました。

最後には連邦保安官として逮捕状を持ち、法の中で捕らえようとしています。

感情が消えたのではなく、感情だけで裁くことをやめた。

この違いは大きいと思います。

結局どちらが正しいのか

ウィルソンの私刑が正しいとは言えません。

しかしフェントンの司法も完璧ではない。

ではクーパーが正しいのかというと、彼も復讐心から相手を追い、銃で人を殺しています。

本作には完全に正しい人物がいません。

だから私は、この映画が伝えたいのは「正しい人間を見つけること」ではないと思っています。

むしろ重要なのは、自分が間違う可能性を認めたうえで、それでもどう行動するかではないでしょうか。

ウィルソンたちが失敗したのは、自分たちの判断を疑わなかったことです。

フェントンは少なくとも自分が間違う可能性を認めています。

クーパーも、自分の復讐が正義だと思っていた状態から疑問を持つようになります。

その「疑う力」が、私刑と法を分ける一つの境界なのかもしれません。

よくある質問

最後に、『奴らを高く吊るせ!』を観たあとに気になりやすいポイントを簡潔にまとめます。

奴らを高く吊るせ!のよくある質問(FAQ)

Q1. 『奴らを高く吊るせ!』はどんな映画ですか?

A. 1968年公開のクリント・イーストウッド主演の西部劇です。無実の罪で私刑にかけられたジェド・クーパーが、自分を吊った9人を追う物語ですが、次第に復讐と法による裁きの違いへ焦点が移っていきます。

Q2. クーパーはなぜ縛り首にされたのですか?

A. クーパーが盗品だと知らず購入した牛が、殺害された牧場主から盗まれたものだったためです。ウィルソンたちはクーパーを牛泥棒と殺人の犯人だと早合点し、裁判を行わないまま私刑にかけました。

Q3. ウィルソンは最後にどうなりますか?

A. クーパーがウィルソンのもとへたどり着く前に、ウィルソンは自ら首を吊って死亡します。クーパーを縛り首にした中心人物が同じ方法で命を絶つため、物語上も象徴的な結末になっています。

Q4. クーパーは最後に復讐をやめたのですか?

A. 復讐心そのものが完全に消えたとは断定できません。ただしジェンキンスの釈放を求め、再び連邦保安官となったうえで残る相手を追っています。個人的な私刑ではなく、法の手続きを通して裁く方向へ変化したと考えるとラストが理解しやすくなります。

Q5. 『奴らを高く吊るせ!』のラストが伝えたいことは何ですか?

A. 私は「法は完璧ではなくても、個人が怒りだけで人を裁くより、法の中で正そうとするべきだ」という意味が大きいと考えています。クーパーが一度バッジを返しながら再び職務を受け入れる展開に、その変化が表れています。

奴らを高く吊るせ!のネタバレまとめ

映画『奴らを高く吊るせ!』は、無実のジェド・クーパーが9人の男に縛り首にされ、奇跡的に生還するところから始まります。

クーパーは連邦保安官となり、自分を吊った男たちを追跡します。ところが囚人の公開処刑やフェントン判事の厳しい裁判を目にするうちに、自分が求めていた復讐と法による死刑は本当に違うのかと迷うようになりました。

終盤ではトミーとルーミスを倒しますが、中心人物のウィルソンは自ら首を吊ります。

そしてフォート・グラントへ戻ったクーパーは一度バッジを返すものの、ジェンキンスの釈放と引き換えに再び連邦保安官として働く道を選びました。

最後には残るチャーリーとマドウの逮捕状を手に、再び馬を走らせます。

だから本作のラストは、復讐を完全に達成して終わる物語ではありません。

自分の手で相手を裁こうとしていたクーパーが、不完全で間違うこともある法制度の中へ戻り、それでも私刑ではなく法による裁きを選ぼうとする。

そこに『奴らを高く吊るせ!』の一番大切な変化があると思います。

派手な西部劇を期待すると少し意外かもしれません。しかし、人を裁くとはどういうことなのか、正義の名のもとなら暴力は許されるのかまで考えさせる内容は、かなり見応えがあります。

最初に「奴らを高く吊るしてしまえ」と感じた自分が、映画を観終えたあとにも同じことを言えるでしょうか。

私は、そこまで含めて観客に問い返してくる作品だと感じました。

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